論文や研究発表の題に、細かい規定のついたものがある。
たとえば「ヘミングウェイの文体の特徴、とくに、初期作品における形容詞の使用についての一考察」といったもの。
これは「ヘミングウェイの文体」として、あとは実際の中身を見て判断してもらうというやり方もあるね。それに比べて、さきのように細かい但し書きがついていると、その論文が、何を述べようとしたものかの検討がついて便利ではある。
同時に、あまり手のうちを見せてしまうと、かえって興味をそそられることが少なくなるというマイナスもないではないよね。
私は、ただ「ヘミングウェイの文体」としておいた方が、ふくみがあって面白いと想う。
ところで、実際に貴方にどのようなセッションを描きたいのか、テーマは何かと訊いてみると、とうとうと愛らしく喋り出す。
大抵は5分経っても、10分経っても終わらない。一部には、なるべくことこまかに述べることが良いという誤解がある場合がある。
しかし、長く説明しなければならないほど、考えが未整理なのよ。
貴方の中で完成されたはずのその欲望は、実はまだ構想すら出来上がっていない。
よく考え抜かれてくれば、
おのずから、中心が絞られてくる。
「ヘミングウェイの文体の特徴、とくに初期作品における形容詞の使用についての一考察」にしても「ヘミングウェイの形容詞」とした方がかえって、描く人の意図をよく伝えるかもしれないわ。
だいたい、修飾語を多くつけると、表現は弱くなる傾向をもっている。
「花」だけでいい。
「赤い花」とすると、
かえって含蓄が小さくなる。
「燃えるような真っ赤な花」とすると、
さらに限定された花しか伝えられなくなる。
修飾を多くすれば、厳密になる。
しかし不用意に行うと、伝達性をそこねかねない。厭味になることすらある。
一般に、永い間、語り継がれてきた御伽話にはあまり形容詞がない。
「花」は「花」であって、「燃えるような真っ赤な花」はまずあらわれない。
名詞中心。
私は表現をギリギリまで純化したかった。
まず、副詞が削られる。
副詞の次には、形容詞もギリギリ必要なものでない限り、落とした方が洗練される。
削って、削って、削り落とす。
すると、名詞に至る。
思考の整理は、名詞を主とした題名ができたところで本質的に完成する。
この方法はアメリカの学術誌などで広く行われていて馴染み深いものになっているんだけれども、日本では、まだ一般的ではない。
抽象の梯子を登って、テーマや題名に至ることほどはっきりさせる方法は少なくないよ。
実際にそういう構成で描くかは別として、考えをまとめる時の参考にはなるよね。
「ヘミングウェイの文体の特徴、とくに初期作品における形容詞の使用についての一考察」といった題名がついていれば、この題名がどういう意味であるか、理解に苦しむということはまずない。ところが「ヘミングウェイの形容詞」といった題名がついている論文だと、形容詞がどうしたのか、よく分からない。
この表現だけから内容を想像すると、
検討はずれになることがないとは言えない。
そうでしょ?
それだけに「本文を読んでみよう、読まなくてはいけない」という気持ちをおこさせる。
だから、私の次回作もタイトルは中身がすっかり出来上がってしまってから、最後につけた。
論文作成の指導書に印象深い注意書きがあったの。
「テーマは〝シングル・センテンス(一文)〟で表現されるものでなくてはならない。」
貴方にテーマを説明させたら、10分も15分も喋っているようでは、とてもシングル・センテンスでまとめるという芸当はできそうもない。
先ず、一文で言い表しなさい。
そうしたら、その中の名詞をとって、表題とすることはなんでもないはずよ。
思考の整理の究極は、表題。
だから、私は貴方にこう名付けた。
「Shangri-La-理想郷-」
追伸
三上章という優れた文法学者がいた。
彼の主著のひとつに『象は鼻が長い』がある。
この題名を見て、書店員はてっきり童話の本だと思い込んで、子どもの棚へと入れてしまったそうなの。
実は、この本は二重主格を扱った日本文法論。
兎に角、題名はくせもの。
題名だけを見て、これはこういう本であると断定するのはたいへん乱暴よ。
題名の本当の意味は、
よくわからないとすべき。
全体を読んでしまえば、
もう説明するまでもなく、理解できるでしょう。

