「百々果さん、荷物多いですね」


最近は小さいバッグで、

ミニマルスタイルが流行のようだね。


私は基本的に何でも大きい方が安心する。

だから、バッグも大きい。

荷物が多くなる理由の一つが、紙の本。

常時ジャンル別で2~3冊持ち歩いているので、

重量も結構あるかもしれない。


ところで貴方は〝紙の本〟好きかな?

それとも電子書籍の方が好きかな?


「百々果様もいい加減、電子化しては?」

『そうだねぇ…』

そう返答しながら、行動しない。


私は〝紙の本〟が好き。


たしかに文字を読むだけなら、

電子書籍の方が嵩張らない上に、

様々な機能も付いていて便利だよね。

(もう使っていないが、一度Kindleに触れた)


しかし、

それでもやはり〝紙の本〟が好き。

古臭い人間だと言われればそれまでだが、

私なりに、考えはあるんだよ。


イタリアの哲学者ウンベルト・エーコ

彼は、紙の本は印刷技術などを別にすれば

500年前と本質的には変わっていないと主張していた。

何故ならば、

本はこれ以上うまく作りようがないから…


とはいえ、

本がこれ以上変わらない最高の形なのだとしても、電子書籍がインターネットに繋がっている以上、情報量という観点で紙の本は敵わないよね、という主張が成り立ってしまう。

いくらでもダウンロードできるのだから…


ところが、

彼はなんとインターネットは姿を消すことだって考えられると主張したんだ…面白い。


書くという行為はもともと紙を想定している。

その意味で〝有機的行為〟だよね。

いわば〝身体と直結した伝達技術〟といえる。


これに対して、

インターネットは有機的道具ではない。


その証拠に記録メディアは、

有機的ではないが故に

方式が変わると使い物にならなくなる。


今やカセットテープやビデオテープを視聴することが困難なようにね…


これはきっと、

人間の行為と対象との双方向的で臨機応変な対応関係を維持することができないからだ。


現に私たちは、

これだけテクノロジーが進化しても、

何百年前の本を読むことができるのだからね…


追伸


こんな感じで思考していく。


紙の本がいつまでも残ると考えると、

より記憶に留めておくための媒体として

活用したいと、私は想う。


例えば…

その時々の想いを書き込んでみたり、

或いはモノとしてもその存在自体が

記憶になるように位置付けてみている。


Knight諸君。

貴方は私によく本を贈ってくれる。

恐らく前述したような理由からではないかな…


その意味では、

本自体が記憶のための媒体なのかもしれない。

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